親の脛を齧ること
こんにちは、Takumiです。
今日は初詣に行くと言いながら所用ができてしまい行くことができませんでした。
あまりこだわりないので気にしていませんが。
思うに僕は伝統行事みたいなものに本当に関心がありません。
年末年始の暴飲暴食で太りましたってのもなく、逆に痩せたような・・・
イベントを楽しむ心が人よりも乏しいと常々思います。
ちなみにこれについては若干の危機感がありまして、目の前の出来事に即座に入り込むことが得意ではないので、何事にも乗り遅れてしまう感が否めないです。
つまり経験から何かを学ぶことに関して、人よりも能力が低いと考えています。
いや、低いというと語弊があるかもしれない、といより自分で可能性を潰してしまっている気がする。
おそらく経験から何かを学ぶ経験が乏しいというのが正確かもしれません。
なので、最近は意識的に手を出してみるように心がけています。
このブログやTwitterもそう。リハビリと言ったら大げさだけど、練習みたいなものかもしれません。
自分の思想・考えを自分の言葉で表現する練習。
ぜひ温かい目で見てやってください(笑)
それはそれとして、
先日職場の先輩と話していておもしろいなと思ったことについて。
社会人は経済的に自立してしかるべきというのが世の中の一般的な見解かと思います。
しかし、これについての僕の認識は、働かなければ食っていけないのであれば働いたらいいし、援助者がいて働く必要がなければ働かなくていいんじゃないか。
いわゆる親の脛を齧っていることの何が悪いのか分からない。というもの。
だいぶ前ですが、僕の友人が仕事を辞めました。
社会人4年目ですが、2度目の離職です。
彼は今、田舎で何らかの団体(詳細略ですが決して怪しいものではない)を立ち上げています。収益はなし。
まさに親の脛を齧っている状態です。
そんな彼ですが、経済的に自失していないことを自覚していながらも、めちゃくちゃ前向きに自分の取り組みを語っていました。
僕はそれを見て、シンプルにかっこいいと思ってしまった。
「やりたいことをやろう」っていう耳に心地の良い言葉がありますが、まさにそれを体現しているなと感じました。
それって環境が恵まれているからでしょうという批判もあるかとは思います。
八方塞がりの状況で頼れる人がいないという現実があることも理解しています。
だからと言って、他者を羨むのはないものねだりでしかないし、恵まれている者がその資源を活かさない理由にもならない。
なので親の脛を齧っている状態であっても何ら引け目を感じる必要はないと思います。
(上記は、社会的自立ができていない者については考えていません。)
・・・というのをぐだぐだと語っていたわけですが、なかなか上手く表現ができない自分に先輩が素晴らしい言葉を。
「親の脛を齧る状態というのが認められなければ、文化人は生まれてこないでしょう。」とのこと。
仰る通り、明治の文豪なんかは働きもせず親の仕送りで創作活動をしていることが作品から読み取れます。
つまりは、生活しなければならないといって、稼ぎに出ることにより創作の時間を奪われ、せっかくの才能を埋もれさせてしまうおそれがあるということ。
まさに僕が言いたかったことを素晴らしい例で表現してくださって小さな感動を覚えました。
多角的な視点から一つの物事を表現するっておもしろいし、人によって腑に落ちる表現って違うよなと思います。
僕にとっては非常に腑に落ちる表現でした。
おしまい。